序章 何がしたいのかわからない

 

どうすることもできない


 「のぶくんを探してきなさい!」
 私が幼稚園に通う頃、3歳上の姉は学校から家に戻ると、母から毎日のようにこう言われ近所を探し回ったようだ。このことを知ったのは、ほんの1年前のこと。自由気ままな性格だった。
 千葉県松戸市の公団団地に、家族4人で暮らしていました。小学5年生になるとき、同じ市内の一軒家に引っ越し。新しい家には自分の部屋もできた。嬉しかったはずなのだけれど、その部屋はいつしか、自分がどうしたらいいのかわからなくなったときにいる場所になっていた。
 父と母の不仲。家の中にいても、二人の会話がない。一緒の部屋に居合わせると、まるでそこで息をしてはいけないような気持ちになった。ときどき起こる母の激しい怒り。私は、父も母も好きだった。なので、そんな場面・そんな空気を感じると、逃れるように自分の部屋に行き、マンガや当時流行っていた電卓ゲームにのめり込んだ。
 今思うと、本当は父と母の仲をどうにかしたかったのだけど、どうしたらいいのかわからなかったんだ。

 

誰かが決めたことに従う


 中学校に入ると陸上部に入った。クラスの友達に誘われるがまま入部した。野球部に入りたいなあ、と思っていたけれど、坊主頭になるのが嫌だったし、小学校の時、マラソンで上位に入っていたこともあったので、まあいいや、という気持ちだった。
 最初の大会で、市で6位に入賞した。秋には3位。冬になり、マラソン大会に数多く出場するようになると、出場するたびに3位以上になり、メダルをたくさんもらった。その後も順調に伸び、市では常に優勝を争い、3年生になると県で3位になり、もう少しで全国大会出場するところまで行った。練習は嫌いだったけれど、大会は大好きだった。それは上位に入るからではなく、大会前になると、コンディション調整のため練習量が減るからだ。
 大会では、積極的なレースをしていた。そんな姿を観ていたうちの一人が、当時、市立船橋高校(以下、市船(いちふな))で陸上部を指導していた小出義男監督だった。その小出監督から中学の監督を経由して、推薦入学の話が来た。練習嫌いだったこともあるので、高校に行ったらもう少し気楽に走れればいいや、と思っていた。なので、自分の学力に合った別の高校に行けたら、と思っていた。でも、結局、市船に行くことになった。どうしてそうしたのか、実は覚えていない。でも少しだけ抵抗して、体育科への推薦入学ではなく、普通科を受験して入ることにした。
 自分が本当にどうしたいのか、ちゃんと考えることもしなかったし、たとえあったとしても、それを貫くことはできず、誰かが決めたことに従っていた。

 

挫折と受験失敗


 入学前から、市船の練習に加わった。きつい。とてつもなく速いし、練習量も桁違い。全く通用しない。中学校も、別の学校の生徒からは「また永遠ジョグ(ジョギング)してる」と揶揄されるほど、試合後も競技場の周りをひたすら走っているような、かなりハードな練習をしてきたはずだった。でも、とにかく辛かった。
 それでも、なんとか練習についていった。市船は長距離部員だけで40人近くいたので、練習は能力別に分かれていた。当時の高校新記録を樹立した先輩もいるような全国レベルのAチーム。Aチームは上位12~15人くらい。小出監督や渡辺コーチがチームの割り振りを決めた。私は、AチームとBチームの境目にいた。Bチームに配置されることもあったが、「Aチームでやりたいやつは(Aチームで練習して)いいぞ」と言われると、Aチームに行った。徐々にではあるけれど、タイムも伸びた。
 秋に身体検査があった。鉄分などが極端に少なく極度の貧血と診断され「要治療」。しばらく走らず、筋トレだけを行うことになった。ここで、自分の”何か”が切れた。

 越境入学だったので、同じ中学の友達がいなかった。練習がきつく、クラスで他の人たちと楽しく話すより、少しでも休んでいたかった。家でも心のどこかで休めていなかった。自分のいる場所がなくなっていた。2年に上がる前の夕方、体育科の教員室にいる小出監督と渡辺コーチのところに行った。大泣きしながら「辞めます。もう続けられません。」と訴えた。そして、退部。挫折した。

 

 部活を辞めて大きな挫折感はあるものの、クラス替えもあり少し心の余裕ができた。2年になると、クラスに友達も増えてきた。1年の1学期には学年で下から3番目だった学力も、徐々に回復した。3年になると、学園祭のクラス展示などにも積極的に加わったり、楽しい学校生活になってきた。学力もさらに伸び、模試では、3年当初、偏差値43だったのが、秋には日東駒専(※日本大学、東洋大学、駒沢大学、専修大学)なら合格可能性Aという判定も出た。担任の先生からも、川口は(合格)大丈夫だろう、と思われていたようだ。駒澤大学含め2校受験した。結果は不合格。浪人することになった。
 この時も、自分が将来どんな仕事に就きたいのか、これから何がやりたいのか、ちゃんと考えたことはなかった。それを知るために、何か行動を起こしたこともなかった。偏差値的には(合格に)届きそう、とか、この学部は”なんとなく”面白そう、とか。そんな基準ばかりで考えていた。

 

 1年間、受験浪人し、法政大学社会学部に合格。千葉の自宅から2時間半の通学だった。入学式の後、会場の外に出た。たくさんのサークルが新入生を勧誘していた。それを観て、自分の中で「何かを変えなきゃ!」と強く感じていた。