第2章 でも何か自分でやってみたい

 

何かを変えよう

 

 とにかくまぶしかった。

 入学式が行われた大学の講堂を出て外に出ると、サークルに勧誘しようとたくさんの大学生たちがいる。晴れて天気も良かったし、とにかく賑やかな声であふれている。まだ見知らぬ先輩たちが、次々と新入生に声をかけている。
 いろいろ観てみよう。そう思いながら、勧誘であふれる中を歩き始めた。今思えば、心の奥底から、その光景が嬉しく楽しかったのだと思う。あるサークルに入ったが、後日、声をかけてくれた先輩から言われたことがある。それは、「川口はニヤニヤしながら歩いていて少し気持ち悪かったから、声をかけるのを辞めようかと思った」と。思わずニヤついてしまうくらい、楽しくて仕方がなかったんだと思う。
 

「何かが変わる。」何の根拠もないけれど、そう確信していた。授業でも隣の席に座る人に次から次へと声をかけていた。自分から声をかけるのは大の苦手だったし、話をするより聴いている方がよかったので、180度違うくらいの大きな変化だった。
 そして、大学1年の後半になると、友人たちと「自分たちでサークルを作ろうぜ」という話になった。ここにはない、ほとんどやったことがないような何か。最終的には、カバティかラケットボールのどちらかにしよう、となった。なぜか決め手は、当時のアメリカ大統領ブッシュがやっている、という理由でラケットボールのサークルを立ち上げることになった。

 全く未経験のスポーツ。そして、何かのチーム(組織)を立ち上げること。とても行動力がある二人の友人がいたからこそできたサークルだったが、新たなものを立ち上げる、という一端を担った経験。それは、「何かを変えなきゃ」から「何かが変わる」になり、さらに「何かが変わった」。

 

 根拠ない自信だったかもしれない。自分主導で起こしたことでもないかもしれない。だけれども、「自分でも何かができる」という種が蒔かれたのは、この時だったのかもしれない。16年前の私の最初の結婚式以来、4人で会うことは一度もない。けれども、今でもこのサークルを立ち上げた他の3人に対して、心のどこかで深く信頼している。

 

  

就職活動と部署配属

 

 大学4年になると就職活動を始めた。

 バブルが終わった年、とも言われたときだった。突然、簡単には就職内定が出なくなった年。サークルの立ち上げにも関わったけれども、自分で起業する、なんてことは全く頭を過ることはなく、会社に入って仕事をすることに何の疑問も持たず就職活動をした。

 業界や職種を考えるとき、どんなことを考えていたのか。いろいろ考えたけれども、出た結論は「手に職を付けられるもの」だった。正直、「自分はこれができます!」「これをやってきました!」と自信もって言えるものが何一つなかった。なので、自分にはこれができるというものをつくること、つまり手に職をつける、ということが最優先事項となった。じゃあ、何の職?となったとき、当時「IT」という言葉が表に出てきた時代で、文系出身者でもSE(システムエンジニア)になれる、という言葉に惹かれた。「自分でも何かができるかもしれない。」そんな自分への可能性と期待をもって、IT業界での就職活動を行った。バブル崩壊の年ではあったけれども6月初旬には内定も出て、夏休みに入る前には正式に入社する会社が決まった。

 

 4月1日入社式。同期が20名ほどいる中、新入社員代表の挨拶もさせてもらった。新入社員研修期間中に人事部と配属希望の面談があった。この時、人事部の担当者に伝えたのは、SE職(部門)ではなく営業部希望。営業職はとても大きな決断だった。

 就職活動の時、手に職と考えSEを希望していたけれど、配属希望するまでの間に、自分自身の中で”ある声”がもっと大きくなっていた。それは「自分が最も苦手なところに行く(苦手なことをする)」。これは今でも変わらないのだけれども、人と話をするのが苦手。不得手。話を聴いているのはいいのだけど、自分が話をするのがダメ。面白いことを言う。相手が楽しくなる話題を提供する。ちゃんと言いたいことを決め、話を整理して話す。起承転結を考えて話す。相手に伝わるように話す。説明する。説得する。納得してもらう。こんな苦手なことを克服したいと思った。

 実は、就職活動の時の最終面接で、毎回のように言っていたことがある。それは「自分がいつでも最も最低であるようにしたい。」ということ。これは苦手なことに挑みたい、成長を意識してやっていきます、という意思表示・決意表明でもあった。だけれども、その裏には自信のなさがあり、それをなんとかしたい、という心の深いところに思いがあった。

 

 そうして、自分が最も苦手意識がある、たくさんの人と話をする、コミュニケーションをとる必要がある営業職として、社会人生活を始めることになった。その後、何度か会社や業界を移ったけれども、会社員生活19年間の全てが営業職だった。