第3章 決められない、逃れられない


自分に自信がない

 

 自信の根っこが育っていない。

 コーチングやカウンセリングなど、さまざまな心理学の学びを深めてきた今、自分のことを振り返ってみれば、そういうことだったのか、と思う。陸上の大会で何度も表彰され、学力的にそれなりに良い成績収め、入社時の新入生代表を務めようと、自分を信頼するという根っこの細さは変わらなかった。

 

 30歳の時、当時勤めた会社の隣部署にいた女性と付き合い始めた。その女性と3年後に結婚することになるのだけれど、結婚を決めたときも同じだった。

 付き合い始めて約1年後の私の誕生日のとき、彼女の方からプロポーズされた。その時は、「その時が来たら、俺から(プロポーズの言葉を)言うからもう少し待って」と一旦保留した。保留させてもらった理由はいくつかあったのだけど、最も大きかった理由は、結婚して自分の家庭を持つ、ということが全く想像できなかったから。その彼女との結婚生活が想像できなかったのではない。あくまで、自分自身の問題。

 時が経つにつれ、彼女からはっきりではないにしても、いつ(プロポーズ)してくれるの?、と言われることが多くなった。翌年、彼女の誕生日に「結婚してください」と伝えた。彼女は笑顔で喜んで受けてくれた。とても嬉しかったのだと思う。でも、プロポーズをした時、私の心を覆っていたのは「もうこれ以上引き延ばせない。逃れられない。」だった。

 

 

家族はどうすればつくれるの?

 

 結婚式を終え、その彼女との夫婦生活が始まった。

 当初は、私の実家暮らし。母は私が28歳の時に家を出たので、私の父との3人暮らし。初めはうまくいっていたけれど、長続きはしなかった。半年で実家近くの賃貸マンションを借り、夫婦二人での生活となった。彼女と私はプロ野球の千葉ロッテマリーンズファンだったので、よく球場で観戦した。音楽のコンサートにもよく行き、コンサートと野球観戦目的で、仙台や神戸、名古屋など、たくさんの場所に一緒に行った。一緒に海に行き、サーフィンやボディボードなどもした。美味しいものを食べることが好きだったので、美味しい店を見つけては一緒に食べに行ったりもした。”夫婦”としてはとても仲良かったし、楽しくうまくやっていた。

 

 彼女は、子どもができることを望んでいた。子どもをつくり、私たちが「家族になる」ことをとても望んでいた。彼女は福山雅治の大ファンだった。ある年、福山雅治が「家族になろうよ」という曲を出したとき、何度も彼女は「家族になりたいね」と言ってきた。

 私はそれに答えることができなかった。いや、言葉として「そうだね。子どもをつくって、家族なりたいね。」とは言っていたと思う。でも、それは本心でなかった。「子どもを育てる?俺が?どうやって?」当時は、子どもが苦手だから、そう思うのだと思っていた。昔から、小さい子どもを見るとどうしていいのかわからなく、遠くで見ているのが精いっぱいだった。「子どもを育てる?父親になる?家族になる?それってどういうこと?」「俺にできるとは思えない。」そのことを考えようとするだけで、頭の中が混乱した。どこにも行きつく場所がないのにどこかへ行かなければならない、という強迫観念に似た感覚にさえなっていた。家族はどうすればつくれるのか、全くわからなかった。

 

 

大きな挫折とダメージ

 

 仕事の方はといえば、IT業界は他社への転職はよくあることであり、私も何度か転職した。3社目で6年目に入ったとき、大卒後入社した会社でお世話になった先輩に再会した。先輩も数社を経て、その時は米国に本社がある日本現地法人の会社に勤めていた。IT系の外資系企業。営業成績さえ上げれば、給与は青天井の世界。「川口、英語どう?(しゃべれる?)」と尋ねられ、「今すぐではないのだけど、(うちの会社に)興味ある?」と言われた。当時、会社での不遇な状態に大きな疑問と不満を持っていた時だった。また、英会話教室に通いTOEIC 600点を超えるくらいの英語力にはなっていた。なので、先輩の問いかけにその事実を伝え、「今も(英語がしゃべれるよう)努力中です!」と答えた。数か月後、先輩の後押しもあり、日本法人の社長と面談し採用され外資系企業に移った。

 

 そこではとても苦戦した。

 営業活動以上に、思っていた以上に英語が通用しない。米国本社や英国現地法人の人が来日し、対面で話すときは、通訳してくれる人もいたので、なんとかなった。しかし、英語での電話会議、専門用語が並ぶ技術文書、英文メールによる報告や依頼文作成。次々と難題がやってくる。極めつけは、マイアミで行われたWorldwild Annual Meeting(年次会議)だった。全世界の現地法人から人が集まり、1週間に渡るミーティングが行われる。パーティーや表彰だけでなく、さまざまな研修も行われた。それは、もちろん英語。営業研修は日本とは違い、ほとんどの時間がペアやチームでのディスカッション。他の人の意見を聴くのが精いっぱい。自分の意見を考える余裕がない。「Nobumitsu. What's your opinion?(で、のぶみつ、これについて君はどういう意見なんだ?)」と尋ねられても、まるで頭が働かない。何と答えていたかまるで思い出せない。とにかく、全く英語についていけないだけだった。

 

 それでもなんとか1週間の滞在を終え、日本に戻った。自分では、ホッとして、これからなんとか取り戻そう、と思っていた。そう思っていたはずだった。数年後、前妻から「(会議から)帰宅したとき、やつれて見えるほど疲れ切っていたよ。」と聴いた。 前妻が、帰宅したその姿を観てすぐにはその言葉を伝えられないほど、ダメージを受けていたのだと思う。

 会議から3カ月経たないうちに、会社へ行けなくなった。日本法人社長が配慮してくれ、3カ月ほど休ませてもらった。しかし、戻ることはなく、そのまま退社した。次の就職先を探す気力が戻るまでに、さらに5カ月かかった。幸い、次の就職先は条件も良く、かつ短期間で見つかった。でも、この時の挫折とダメージは、その後にも大きく影響を及ぼしていた。