第4章 ギャップ

 

父の死

 

 外資系の会社で出勤できなくなる前に、もう一つ大きな出来事があった。それは、父の死だった。

 父は、亡くなる10年前に前立腺がん、5年前に脳梗塞を患った。がんはステージ4と言われていたが、悪化も再発も他部位に転移することもなかった。脳梗塞の時は左半身付随の可能性もあったが、左目の弱視と若干の左半身麻痺という後遺症のみでとどまっていた。なんだかんだ言っても90歳くらいまで生きるんじゃないの?、なんて父に言っていた。

 

 夜中1時過ぎに、実家の近所の人から携帯電話に連絡が入った。「あなたのお父さんから、背中がものすごく痛いから病院に連れて行ってくれないか、って連絡があって、今、病院に来ているの。今から来れる?」父が運ばれた病院から車で15分のところに住んでいたので、すぐに向かった。夜間救急の入り口から入り、父が寝ているベットに向かった。その時には、ひととおりの検査が終わっていた。父は落ち着いてはいたが背中の痛みは治まっておらず、医師の説明を待つ間、ずっと背中をさすっていた。到着して30分くらい過ぎた後だったろうか、医師が部屋に入ってきた。医師の説明によると、準備が整い次第すぐに手術が必要であり、手術すれば助かる可能性はある、とのこと。まだ夜が明ける前だったと思うが、手術の準備ができたという。いよいよ始まるという時、手術室の前で、父は痛みからなのか不安からなのかわからなかったけれど、何かにすがるような眼で私を観た。私は、「手術始まるってさ。またね。」と父に伝えた。それが、父と交わした最後の言葉になった。

 

 手術は成功した。でも、予断は許さない状況で、意識が戻れば(生存する)可能性がある、と言われた。2日後に一度(目を開けたわけではないが)意識が戻ったが、またすぐ意識不明になった。6日目、会社に出ていると父の状態が急変したとの連絡が入り、病院に駆け付けた。集中治療室(ICU)で担当の医師から、父の状態が戻る見込みはなく、生命維持装置を外せば心臓も止まる、と告げられた。父の兄弟に連絡をし、全員がそろった翌朝、生命維持装置を外した。10分も経たないうちに、心拍数が0になった。梅雨も明け、連日30度を超える蒸し暑い夏の日だった。

 

 父の死は、私の中に強い罪悪感を植え付けた。「父を殺したのは、俺だ」と。

 父と別居したのは、父が脳梗塞後だった。父は、左目の弱視と若干の麻痺に戸惑っているときでもあった。前妻と父との関係性があまりうまくいかなかったこともあったから、すぐに会えるくらいの距離に別居したのだが、それでも、私の心の中では「父を見捨てた。見放した。」という思いが強くあった。そして数年後、思いもよらぬ死。そう、「またね」と声をかけたように、このまま父が亡くなると思っていなかった。「見捨てた。見放した。俺が殺したようなものだ。」この気持ちは、最近まで誰にも言うことはなく、自分の中で持ち続けていた。

 

 

意義ある仕事に就く

 

 自分の根元を見つめることがなかった。

 2つの大きな出来事があり、ショックを受け、自分の内側でさまざまなことを感じていたにも関わらず、そこを見つめ直すことがなかった。それが必要なことだと全く知らなかった。”思考”だけでなんとかしようと思うこと自体、無理があることも。

 

 外資系の会社を退職後、IT系の会社を経て外資系の生命保険業界に飛び込んだ。

 全く新たな業界だったし、相当厳しい業界であることも知っていたけれども、それでも「自分さえちゃんとやれば、なんとかなる」と思っていた。同時に、本当にこんな厳しい業界でやっていけるのだろうか?という不安も大きく抱えていた。実際、深く眠ることができた日はなかったし、夜中に何度も目が覚めて「どうしたらいいのだろう?」と思っていた。でも、それは、朝出かける時までには、これらの不安は”なかったこと”にして仕事に出かけていた。

 

 生命保険会社で研修を受け、生命保険の果たす役割や意義を知った。自分や家族のことを考え、今だけでなく将来のこともしっかりと考える。それでも”万一のこと”があったとき、残された家族・子どもが行きたい学校に行ったり、少しでも(経済的に)安心して生活ができるように備える。厳してもやる価値のある、かけがえのない仕事だ!と大志を抱いた気持ちにもなった。

 そして、実際、以前の職場の人たちなど、たくさんの人の話を聴かせてもらった。家族について、家族についてどう考えているのか、どんな不安があるのか、どんな夢を持っているのか、子どもたちの進路をどう考えているか。子どもたちが人生をどう歩んでほしいのか。「ここまでちゃんと考えたことなかったよ。ありがとう。」お会いした方から、そんな声もたくさんもらっていた。だから、時間は少しかかるかもしれないけれど、「(この仕事を)やっていけるはず」と考えていた。

 

 

想いとのギャップ

 

 これまでに会ったことがある人だけでなく、新たな人との出会いもたくさんあった。異業種交流会も行ったし、朝4時に起き、6時半からやっている練馬区の倫理法人会などにも出かけた。IT業界での営業活動では出会わなかったさまざまな考え方に触れる機会が増え、大きく世界が広がった。同時に、倫理法人会などで聴く講話などから、より一層、今自分がやっている生命保険の営業(正確には募集人という)は、本当に意義ある活動だという想いがさらに深まっていった。

 

 しかし、その想いは、営業成績という現実には全く反映されなかった。

 会う人の話をたくさん聴いた。その人の話を聴くことそのものが、とても喜ばれた。感謝もされた。生命保険のやりとりそのものについても、その人がすでに入っていた生命保険で大丈夫だと安心できたり、もし不足があったとしても、どう自分たち家族がやっていけばいいのか考える機会をくれてありがとう、と喜ばれた。しかし、ただ喜ばれるだけでは、営業成績には全く反映されない。「保険契約をすることで喜ばれる」ようにならないと、”給与”という現実はついてこない。これは、ビジネスの世界だから当たり前のこと。常識。頭では、そんなことは当然わかっていた。

 

 IT系に限らず、外資系の生命保険会社もシビアだ。かなりの数か高い報酬ポイントがある保険契約が取れないと、給与=報酬は生まれない。月額6万円台にまでなった。人に会いに行くための交通費などは自腹なので、貯金も目減りする一方だった。そして、この業界はある一定の成績を挙げ続けていないと解雇にもなる。その瀬戸際にも追い詰められた。

 何度も足を運び話をし、その人にとって本当に必要だと思う具体的なプランを作り、「本当に必要なので、この保険に入ってください!」と懇願し、実際に契約してくれた人もいた。本当に必要だと思ったから、というのは紛れもない事実だった。でも、その数か月後、その保険が解約になった。解約の事実がわかると、すぐにその人に電話をした。解約理由は、「川口さんが信じられないから」だった。この時、これまで持っていたはずの「自分」という存在が消えてなくなったように感じた。

 

 でも、仕事のことだけだったら、もしかしたら「自分」という存在は消えてなくならなかったのかもしれない。